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ここは朔が支配人を務める劇場《閑古鳥の啼く朝に》のサロンです。上映案内から、日々のつれづれ事まで。          のんびりまったり更新中。renewal:07/05/02
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そんな今日この頃。
2010.03.23 (Tue)
 日曜日の夜に母上様から電話が掛かってきて、突然ながら、今徳島の祖父が入院していることを知った。
 聞けば、もう2週間ばかり入院しているという。
 肺気腫(といわれてもよく分からない。肺炎の進化版?)だそうだ。
 もっと早くに教えてくれていれば、この日月に顔くらい見せに行ったものを……と思いつつ電話を切った。

 思えば、このお正月にも帰省しなかったので……最後に会ったのは……去年の夏??
 あれ? 去年の夏って、実家には帰省したけど、徳島には行ったっけ??
 というくらい、もう会ってない。

 朔は初の内孫で、5歳までは一人っ子だったというのもあり、祖父母にはそれはそれは可愛がられていた。
 しかし彼らは父親の両親。
 朔と父親との関係が悪化するとともに、自然と彼らとも疎遠になったりならなかったり(古い人間でもあるし、絶対に朔が悪いと父親の肩をもつ)。
 それでも、成人のお祝いをわざわざ場所を借りきって宴会まで開いてくれたのは朔だけだった。
 今年成人式を迎えた弟(末っ子のくせに長男)さえ、スルーだったのに。
 小学生の頃とはいえ、いろいろと旅行に連れて行ってもらったのも、朔だけ(伯母方の従兄はオーストラリアに連れて行ってもらってたけど)。
 まあそれは、たまたま定年退職したばかりで気力もお金も有り余ってた頃だった、というものあるだろうけど。
 それでもたぶん、というか絶対、朔がいちばん可愛がられていた。
 ピアノも買ってもらったし、なんかおっきなひな壇も市松人形もあるし、高校の入学祝いにはパソコン買ってもらったり、大学の入学祝いも、就職祝いも、金額にして一番もらったのは妹よりも弟よりも朔だった。

 ……でもなぁ。なんかなぁ。
 今年で85歳?くらいかな??
 肺炎でさえ亡くなる高齢者が多いなかで、気弱になった祖母は見舞いに訪れた母上に「もう長くないし」みたいなことを言ったという。
 祖父はずっと微熱が下がらず、食欲もないそうだ。
 病院の電話番号と病室番号は教えてもらったので、日曜の午後に掛けてみたけど、もっとこう、お正月に顔を出さなかった罪悪感とか、思わず涙で声が詰まるような思いとかがこみ上げてくるかと思ったけど、そういうことも全然なかった……。
 むしろ、いつもどおりだった……(しかしさすがに今回は、「結婚は?」とは訊かれなかった)。

 なんでだろう……。
 朔ってひょっとしなくても、ものすごく情も感謝の心もない人非人なんだろうか……。

 ……と考えてみて、やっぱり思い出すのは3年前に伯母が亡くなった時のこと。
 祖母は娘の死に号泣していた。
 朔は不思議なくらい無感動だった(むしろ入社したてなのにいきなり有給休暇使って帰省しなくちゃならない事態になって気が立っていた)。
 でも思い返せば、弟である父親も、朔の母上も泣いてはいなかった。
 あ、従姉(伯母の娘)は、泣いていた。
 そうか、確かに従姉は泣いてたな……。

 もしも茶道の先生とか、親しい友達が亡くなったら、朔は号泣すると思う。
 でもなぁ、こんなこと言うと非難されるかもしれないけど、親族が亡くなって、朔、泣くかなぁ……。
 ひょっとしたら、自分より若い妹・弟が亡くなったら可哀想で泣くかもしれないけど、……その可能性も低いなぁ……。
 むしろ、呆然として終わり、の可能性が高いと思う。
 そして後になって、遺品の整理とかしながら、少し思い出して泣くと思う。

 そもそも、人が亡くなった時、どうして人間は泣くんですかね?
 可哀想?
 たしかに、自分より若い人とか、将来のある人が亡くなるのは可哀想ですが。
 でもそれだけじゃ、自分の両親とか祖父母の死に泣く理由にはならないし……。
 あるいは、遺される自分が可哀想?
 ……う~~~~ん……、でも朔、離散家族だし、経済的にも仕送りもしてない代わりに依存もしてないし……。
 もしかして感謝で?
 ……なわけないか、あの沈痛な雰囲気は……。
 後悔?ですかね。
 生前受けた恩に報いることが出来なかった、っていう。
 う~~~ん、これならアリか??

 死を想う、とかメメントモリとか、たしか小学校か中学校の国語の教科書にも出てきて、その頃からふっと考えたりするけど、未だにどういうことか分からない。
 このままいけば、近い将来に必ず祖父母の死が待ってるだろうけど、それを思えばぞっとはすれど、泣きそうな気配はまったくない。
 そして、死に目に会いたいから地元で再就職しようとか、自宅で介護できるよう(肺気腫はそういう病気じゃないだろうけど)田舎で同居しようとか、そんな気は一切ない。
 万が一そんなことになれば、その後の人生のすべてを掛けて恨むし憎むだろう。

 なんだか、自分でも人道的にどうかと思うけど、身内の不幸って、突然降りかかる火の粉みたいな……?
 友達とか恩師のことには感情移入出来ても、それが身内になると思考停止で無感動状態になる、みたいな……?
 このままいけば、「ふーん」で済ませてしまいそうな自分がちょっと怖かったり。
 それともこれは、自分が深く傷つくのを防ぐための自己防除の一種なのでしょうか。
 あえて「大したことではない」と思い込む、みたいな。

 でも、たとえ誰が死んでも、自分自身の人生は前へ進んでいく。
 これだけは真実なんだよなぁ……。

 他の人って、死とどう向き合ってるんだろう。
 そんなことを考える、今日この頃。

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