ここは朔が支配人を務める劇場《閑古鳥の啼く朝に》のサロンです。上映案内から、日々のつれづれ事まで。 のんびりまったり更新中。renewal:07/05/02
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
いや、待て。
ソリュートはそれまでの知識を総動員して考えを改めた。
今よりずっと昔、まだフィンデル・ファロスと異界がつながっていた頃、稀に人間の中にも黒髪や黒瞳を持って生まれる者がいたという。
「たしか、リッタ・ハースは魔属だったと……」
ソリュートは口の中で呟き、ふむ、と片手を顎に当てて考え込む姿勢となった。
そんな主の姿に使用人たちは顔を見合わせるが、そんなものを気にするソリュートではない。
「これも一種の先祖返りか……?」
魔族と人間の混血児は魔属と呼ばれ、特に魔族の血が濃く表れた者の中には黒髪、黒瞳を有する者も生まれたという。
ソリュート・ハースの遠い先祖であるリッタ・ハースの容姿に関する記述は伝わっていないが、魔属であったことは書物に明記されていた。
いや、しかし妻の懐妊は自分にとっては何も預かり知らぬことで……。
なれば必然的に、この赤子がハース家の血を引いているはずもなく……。
しかしこの髪、瞳の色は……
そう考え込むソリュートの耳に、か細い声が届いた。
「……して、」
ん?と思い視線を転じると、枕に顔を埋めるようにして泣いていた妻が濡れた面を上げていた。
「殺して下さい……っ」
か細く囁かれたその言葉に、ぎょっと半歩後ずさったのは使用人たちだけだった。
ソリュートは冷えた眼差しで妻である女を見下ろす。
「もう私を殺して下さいっ。これ以上の恥辱には耐えられません……!」
妻の目は生まれたばかりの我が子をこの世の汚辱という汚辱、あらゆるけがれの権化であるかのように拒絶の目でもって睨んでいた。
ソリュートは妻と赤子を静かに何度か見比べた後、手を伸ばして産婆から赤子を受け取った。
そしてきびすを返して廊下へ向かいながら、
「妻は産後の疲れで体調が思わしくないようだ。落ち着くまで実家に戻すのが良いだろう」
とだけ言った。
赤子はトリアスと名付けられ、ハース家の嫡男として大切に養育された。
その後トリアスがよちよち歩きをはじめ、言葉をしゃべりはじめても妻が実家から帰ってくることはなかった。
ソリュートはそれまでの知識を総動員して考えを改めた。
今よりずっと昔、まだフィンデル・ファロスと異界がつながっていた頃、稀に人間の中にも黒髪や黒瞳を持って生まれる者がいたという。
「たしか、リッタ・ハースは魔属だったと……」
ソリュートは口の中で呟き、ふむ、と片手を顎に当てて考え込む姿勢となった。
そんな主の姿に使用人たちは顔を見合わせるが、そんなものを気にするソリュートではない。
「これも一種の先祖返りか……?」
魔族と人間の混血児は魔属と呼ばれ、特に魔族の血が濃く表れた者の中には黒髪、黒瞳を有する者も生まれたという。
ソリュート・ハースの遠い先祖であるリッタ・ハースの容姿に関する記述は伝わっていないが、魔属であったことは書物に明記されていた。
いや、しかし妻の懐妊は自分にとっては何も預かり知らぬことで……。
なれば必然的に、この赤子がハース家の血を引いているはずもなく……。
しかしこの髪、瞳の色は……
そう考え込むソリュートの耳に、か細い声が届いた。
「……して、」
ん?と思い視線を転じると、枕に顔を埋めるようにして泣いていた妻が濡れた面を上げていた。
「殺して下さい……っ」
か細く囁かれたその言葉に、ぎょっと半歩後ずさったのは使用人たちだけだった。
ソリュートは冷えた眼差しで妻である女を見下ろす。
「もう私を殺して下さいっ。これ以上の恥辱には耐えられません……!」
妻の目は生まれたばかりの我が子をこの世の汚辱という汚辱、あらゆるけがれの権化であるかのように拒絶の目でもって睨んでいた。
ソリュートは妻と赤子を静かに何度か見比べた後、手を伸ばして産婆から赤子を受け取った。
そしてきびすを返して廊下へ向かいながら、
「妻は産後の疲れで体調が思わしくないようだ。落ち着くまで実家に戻すのが良いだろう」
とだけ言った。
赤子はトリアスと名付けられ、ハース家の嫡男として大切に養育された。
その後トリアスがよちよち歩きをはじめ、言葉をしゃべりはじめても妻が実家から帰ってくることはなかった。
PR
まさか死産。
その考えが頭をよぎり、居並ぶ使用人たちをかき分けるようにして寝台に近付く。
寝台横には、ひざまずくようにして控えている産婆の姿があった。
腕の中に何かを抱え込んだ格好で、寝台にうつ伏せで横たわったまま枕に顔を伏せて泣いている妻を慰めているようだ。
「赤子はどうしたのだ」
状況把握のためについ詰問口調になる。
産婆は弾かれたように体を起こすと、おずおずと腕の中のものをソリュートへ差し出した。
「男児でございます…」
その言葉とともに、産婆の腕に抱かれていたものの覆いが取り払われる。
「これは…」
普段は不機嫌以外の表情を出さないソリュートでさえ、それを一目見て絶句した。
未熟児らしく形は小さいが、赤子は確かにヒトの姿形をしていた。
妻に似たのか、生まれたばかりだというのに雪で洗ったような白い肌には汚れ1つない。
小さな手足をしきりに動かしながら、宙に向かって何かを求めるようにむずがっている。
そう、何かを求めるように。
赤子は未だ見えないはずの目を、黒曜石をはめ込んだような両眼を見開き、泣くこともせずにじっと宙の一点を見据えていた。
その様は異様としか言いようがなかった。
まるで千の齢を重ねた賢者のごとく落ち着きはらった眼差し。
そして何より異様だったのは、その瞳の色、さらに髪の色だった。
黒。
フィンデル・ファロスにすまう人間には決して表れない色。
黒は今は封印された異界に棲む魔族の色。
しかも魔族の中でも高位の者にしか表れない色だった。
その考えが頭をよぎり、居並ぶ使用人たちをかき分けるようにして寝台に近付く。
寝台横には、ひざまずくようにして控えている産婆の姿があった。
腕の中に何かを抱え込んだ格好で、寝台にうつ伏せで横たわったまま枕に顔を伏せて泣いている妻を慰めているようだ。
「赤子はどうしたのだ」
状況把握のためについ詰問口調になる。
産婆は弾かれたように体を起こすと、おずおずと腕の中のものをソリュートへ差し出した。
「男児でございます…」
その言葉とともに、産婆の腕に抱かれていたものの覆いが取り払われる。
「これは…」
普段は不機嫌以外の表情を出さないソリュートでさえ、それを一目見て絶句した。
未熟児らしく形は小さいが、赤子は確かにヒトの姿形をしていた。
妻に似たのか、生まれたばかりだというのに雪で洗ったような白い肌には汚れ1つない。
小さな手足をしきりに動かしながら、宙に向かって何かを求めるようにむずがっている。
そう、何かを求めるように。
赤子は未だ見えないはずの目を、黒曜石をはめ込んだような両眼を見開き、泣くこともせずにじっと宙の一点を見据えていた。
その様は異様としか言いようがなかった。
まるで千の齢を重ねた賢者のごとく落ち着きはらった眼差し。
そして何より異様だったのは、その瞳の色、さらに髪の色だった。
黒。
フィンデル・ファロスにすまう人間には決して表れない色。
黒は今は封印された異界に棲む魔族の色。
しかも魔族の中でも高位の者にしか表れない色だった。
未熟児として生まれた赤子は、トリアス・ハーンと名付けられた。
トリアスが生まれた日のことを、ソリュートは今でも昨日のことのように覚えている。
ちょうどその日は公休日で、しかし学長に休む暇などなく、自宅の書斎に籠もって書物の山に囲まれていた時のことだ。
突如として屋敷の中に身の毛もよだつような悲鳴が響きわたった。
続けて廊下を慌ただしく行き来する足音が続き、眉を顰めているうちに書斎の扉をノックする音が。
「旦那様、ご子息の誕生でございます」
使用人からそう告げられて、そういえばもうそんな時節か、と気付く。
約1年前に見合い結婚をした妻とは反りが合わず、新婚当初から別居状態だ。
ソリュートは若い頃から仕事が恋人というような男であったし、妻の方は日がな1日窓辺に座って刺繍をしているような女であった。
どちらも自分から積極的にコミュニケーションを取りに行くタイプではなく、夫婦となっても顔すら合わせない日が1週間続くこともざら。
そんな時の妻の懐妊だった。
ソリュート自身に身に覚えはなくとも、不貞を働くような妻でないことも分かっている。
結局何の話し合いの場も設けないまま、うやむやのうちに今日の日を迎えたのであった。
それにしても、先程の悲鳴は何事か。
義務感半分、好奇心もう半分、残りはかすかな苛立ちを感じながら妻の主寝室を訪れると、そこには寝台を取り囲むようにして棒立ちになっている使用人たちの姿があった。
「何事だ」
仮初めにも後継ぎ誕生の瞬間に立ち会ったというような喜びや興奮といった様子ではない。
部屋には重苦しい沈黙が幾重にも折り重なり、時折漏れ聞こえてくるすすり泣くような声は、赤子ではなく初産を終えたばかりの妻のものだった。
トリアスが生まれた日のことを、ソリュートは今でも昨日のことのように覚えている。
ちょうどその日は公休日で、しかし学長に休む暇などなく、自宅の書斎に籠もって書物の山に囲まれていた時のことだ。
突如として屋敷の中に身の毛もよだつような悲鳴が響きわたった。
続けて廊下を慌ただしく行き来する足音が続き、眉を顰めているうちに書斎の扉をノックする音が。
「旦那様、ご子息の誕生でございます」
使用人からそう告げられて、そういえばもうそんな時節か、と気付く。
約1年前に見合い結婚をした妻とは反りが合わず、新婚当初から別居状態だ。
ソリュートは若い頃から仕事が恋人というような男であったし、妻の方は日がな1日窓辺に座って刺繍をしているような女であった。
どちらも自分から積極的にコミュニケーションを取りに行くタイプではなく、夫婦となっても顔すら合わせない日が1週間続くこともざら。
そんな時の妻の懐妊だった。
ソリュート自身に身に覚えはなくとも、不貞を働くような妻でないことも分かっている。
結局何の話し合いの場も設けないまま、うやむやのうちに今日の日を迎えたのであった。
それにしても、先程の悲鳴は何事か。
義務感半分、好奇心もう半分、残りはかすかな苛立ちを感じながら妻の主寝室を訪れると、そこには寝台を取り囲むようにして棒立ちになっている使用人たちの姿があった。
「何事だ」
仮初めにも後継ぎ誕生の瞬間に立ち会ったというような喜びや興奮といった様子ではない。
部屋には重苦しい沈黙が幾重にも折り重なり、時折漏れ聞こえてくるすすり泣くような声は、赤子ではなく初産を終えたばかりの妻のものだった。
エアーティアの近く、南に数日の距離に学問都市セイナッハがある。
セイナッハは古くから自治都市として独自に発達してきた都市であり、円い城壁に囲まれた内部は、中心に聳える総学長の塔を起点にケーキをカットするように特徴あるいくつかの地区に分かれている。
それぞれの地区には学長がおり、独自の知識体系を形成してきた。
中でも古いのは歴史地区で、歴代の総学長を幾人も排出してきた名門である。
現在の歴史地区学長の名はソリュート・ハース。50を幾つか過ぎた、世の中に何一つおもしろいことなどない、とでもいうような仏頂面が地顔になってしまっている男だ。
彼の父親もかつては歴史地区の学長を務めており、現在は総学長の座に就いている。
ハース家の家名は、半エルフであり永くセイナッハの総学長を務めたレーン・ハースに由来する。
レーン・ハースは生涯独身を貫いたが、代わりに多くの養子を育て上げ、ソリュートの家もそうして始まった傍流の家系である。
先祖はおよそ1000年前、セーナ女王時代の歴史地区学長リッタ・ハースまで遡ることができた。
そして今から12年前、ソリュートに待望の跡継ぎが誕生した。
セイナッハは古くから自治都市として独自に発達してきた都市であり、円い城壁に囲まれた内部は、中心に聳える総学長の塔を起点にケーキをカットするように特徴あるいくつかの地区に分かれている。
それぞれの地区には学長がおり、独自の知識体系を形成してきた。
中でも古いのは歴史地区で、歴代の総学長を幾人も排出してきた名門である。
現在の歴史地区学長の名はソリュート・ハース。50を幾つか過ぎた、世の中に何一つおもしろいことなどない、とでもいうような仏頂面が地顔になってしまっている男だ。
彼の父親もかつては歴史地区の学長を務めており、現在は総学長の座に就いている。
ハース家の家名は、半エルフであり永くセイナッハの総学長を務めたレーン・ハースに由来する。
レーン・ハースは生涯独身を貫いたが、代わりに多くの養子を育て上げ、ソリュートの家もそうして始まった傍流の家系である。
先祖はおよそ1000年前、セーナ女王時代の歴史地区学長リッタ・ハースまで遡ることができた。
そして今から12年前、ソリュートに待望の跡継ぎが誕生した。
話をエルフに戻そう。
創造神フレアディルによって天空に輝く星々の地上における化身、すべての善なるものの象徴として創られしエルフ。
しかし5柱の女神によるフレアディルの追放によって種の繁栄を閉ざされた彼らは、支配権を人間に明け渡した後、大陸の北に位置するエアーティアに隠れ棲むようにしてその永い生を歩んできた。
四善力によって守られしエアーティアの森は固く人間の進入を拒み、彼らもまた人間への不干渉を掲げて森の外へは出てこなかった。
例外は、現在もフィングレアで顧問を勤める水のエルフ、ルナール・フオルカ・エレニアールか。
ルナールはフィングレアの初代女王である風のエルフ・セレンティの盟友であり、セレンティ亡き後もフィングレアを陰に日なたに教え導いてきた。
しかしそれは例外中の例外であり、遙か上古にあったエルフと人間の蜜月時代など、とうに忘れられて久しい。
これから紡がれる物語は、そんな時代の物語。
永かった人間によるフィンデル・ファロスの統治が終わりを迎える、そのはじまりの物語である。
創造神フレアディルによって天空に輝く星々の地上における化身、すべての善なるものの象徴として創られしエルフ。
しかし5柱の女神によるフレアディルの追放によって種の繁栄を閉ざされた彼らは、支配権を人間に明け渡した後、大陸の北に位置するエアーティアに隠れ棲むようにしてその永い生を歩んできた。
四善力によって守られしエアーティアの森は固く人間の進入を拒み、彼らもまた人間への不干渉を掲げて森の外へは出てこなかった。
例外は、現在もフィングレアで顧問を勤める水のエルフ、ルナール・フオルカ・エレニアールか。
ルナールはフィングレアの初代女王である風のエルフ・セレンティの盟友であり、セレンティ亡き後もフィングレアを陰に日なたに教え導いてきた。
しかしそれは例外中の例外であり、遙か上古にあったエルフと人間の蜜月時代など、とうに忘れられて久しい。
これから紡がれる物語は、そんな時代の物語。
永かった人間によるフィンデル・ファロスの統治が終わりを迎える、そのはじまりの物語である。