ここは朔が支配人を務める劇場《閑古鳥の啼く朝に》のサロンです。上映案内から、日々のつれづれ事まで。 のんびりまったり更新中。renewal:07/05/02
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
同志社女子大学の栄光館で行われた講演会に行って参りました
♥で隠したところには整理番号があるのですが、新聞にお知らせが載ってすぐに応募したにも関わらず、600番台半ばでした。
すごいなぁ。
会場は↓。
講堂の座席は素晴らしく前後の間隔が狭く、身長が150センチに満たない朔でさえ、座ると膝が前の席の背もたれにぶつかるという有様。笑
腰から膝に掛けて、ずっと突っ張ってる状態ですよ。
一体皆さん、どうやって座席に収まっていたのか、首を傾げるばかりです。
でも、荷物を置くスペースすらなかったので皆さん膝に荷物を置いていて、足をどんな風に折り曲げているのかは分かりませんでした。
まぁとにかくあの狭さには驚きました。笑
2階席までほぼ満席状態で、朔と同年代の方よりも、もう定年されてるような年代の方の方が多かったです。
さて、朔が今回の講演会になぜ参加したかというと、ご高齢ということもあり、生きておられるうちにドナルド・キーンさんをこの目で見たかったしお話を聞いてみたかったからです
今年、ドナルド・キーンさんが日本人に帰化したという新聞記事をお読みになった方も多いと思いますが、キーンさんはコロンビア大学の名誉教授であり、日本文学・文化の研究者として第一線で活躍されていた(いる)方です。
御歳89歳
朔は、大学の英語の授業で、キーンさんの自伝(自伝じゃないかも?)を読んだことから、キーンさんに興味を持ちました。
米海軍の日本語学校で日本語を学び、大戦中は通訳を務めたことや、京都に留学していた時は泉涌寺近くに下宿し、日本人の「お出かけですか」「ちょっとそこまで」という会話が何やねん?みたいな話を読んだことを、今でもおぼろげに覚えています。
今日の講演会はそれらを骨子に肉付けするような内容のお話を聴けました。
・大戦中に一緒に通訳官として働いたのが、オーティス・ケーリ(同志社大学設立者の新島譲と同じくアーモスト大学の卒業生で、同志社大学に派遣されてきたアメリカ人。後の同志社大学名誉教授)で、彼がキーンさんに泉涌寺近くの下宿を紹介した(それをキーンさんは「国宝級の下宿」と冗談めかして表現)。
・その下宿で出会ったのが、永井道雄氏(元文部大臣)で、そこから日本の古典文学だけでなく、当時の現代文学にも興味を持つようになった(最初キーンさんは、アメリカ帰りの永井氏に会うと、英会話の練習相手をさせられるだろうと、敬遠していたそう。逆に永井氏は、キーンさんに会うと日本文学について難しいことを訊かれるだろうと思い、互いに顔を合わせることを避けていたそう。笑)。
・当時、谷崎純一郎氏は京都に住んでおり、東京在住のエドワード・G・サイデンスティッカー氏が英訳した『細雪』の原稿を東京から谷崎宅まで届けたことから、親交が生まれた。(それについてキーンさんは、「(サイデンスティッカー氏は)日本の郵便を信じていなかったから(自分が届けるよう頼まれた)」と。笑)
・京都の四季では、冬が好き。理由は、修学旅行生がいないから。(この発言に、会場内では笑いとちらほら拍手が。笑)
・クラシック音楽全般好きだが、特にオペラが好き。オペラの台本は、文学として読むととても読めた代物じゃないひどいものだけど(笑)、それが音楽に乗って声に出されると、それらを超えるから。
キーンさんはユーモアもあり、他にもいろいろとお話が聴けて本当に良かったです。
本当に日本を愛してるんだなぁというのが伝わってきました
そうそう、冷泉家25代当主である冷泉為人さんのお話も聴きました。
冷泉家は藤原定家に連なる和歌の家ですが、婿養子である為人さんの専門は近世絵画だったのですね
枕草子の構成から大和絵へと話を運び、そこから「日本人とは」というお話をされました。
時間にしてたった30分程度のお話だったので、そこまで深く突っ込んだ内容でもなく、まぁ良くある
「日本人って、お宮参りして、教会で結婚式やって、お寺でお葬式挙げるよね」⇒「とにかく何でも受け入れるのが得意」=「受容的民族」
何故なら自然との関わり方を見たときに、「日本人は自然と一体となって理解しようとする(=親和的、受容的)」から。ex.八百万の神
つまり日本人は、「多様なものを多様なものとして認める」ことが出来る=「情趣による理解を行う」ので、「何でも日本人の感性に合わせて変容させて、受け入れていく」=「ゆるやかな規則」←日本人の得意とするもの
それに対して一神教の欧米では、自然との関わり方を見たときに、「自然を人間の都合に組み変えようとする」=「理知的理解」
というような流れでお話は進みました。
そこら辺で時間切れになってしまい、ご本人も仰っていたように「尻切れトンボ」の講演に
朔としては、↑のような一般論ではなく、最後の方でちらっと仰っていた、パスカルの言葉「やわらかき魂(美を意識するのに必要なものらしい)」とか、キーンさんの著書に出てくる「たおやめぶり」「ますらおぶり」に見る日本人観のお話の方が詳しく聴きたかったのですが……。
それにしても冷泉為人氏の講演は、脱線話の方が面白かったです。笑
人物紹介の時に「(同志社大学とは)隣組のような」と言われたことを受けて、一番近く(隣)から来ました、とか。笑
長年町内会長をしているけど、「人家」は町内に自分のところしかないとか(周囲は同志社大学とか御所など)。笑
その関係で、アーモスト館(元は学生寮)に国勢調査の用紙を届けに行ったとこがあるとか。笑
大学時代(院生時代?)に『枕草子』を再読して、こんなに何でも知ってる女性がカノジョだったら大変だと思ったとか。笑
そして、そんなことを言いつつ、自身は伝統と格式の冷泉家の婿養子というこの矛盾。笑
昨年末のお茶事で為人氏の短冊を拝見しましたが、実は朔の先生が為人氏とは同郷のご友人だと知ったのは、その後のお稽古の時でした。
なるほど、そういう繋がりだったのか
最後に蛇足ですが、司会進行役の元某新聞社の人が、「冷泉家」のことを「れいぜんけ」と言うのがどうにも引っ掛かりました……。
はぁ……。
そりゃ、字面を見ればそう読めないこともないけどさぁ……。
講演者の名字、しかもあの冷泉家ですよ? 現代に残る唯一の定家の子孫ですよ? 時雨亭文庫の継承者ですよ? それを、元とはいえ新聞社に勤めてた人が間違いますかねぇ……。
逆に、紙面での字面しか追ってなかったから、読み方を勘違いしてしまったのでしょうか……。
初っ端からがっくりしてしまいました。
講演中の写真撮影は、席の移動をしない範囲で、フラッシュをたかなければOKだったので、記念にパシャリ。
↓真ん中がキーンさん、黄色のネクタイが為人氏です
ピントぼけぼけですみません……。
♥で隠したところには整理番号があるのですが、新聞にお知らせが載ってすぐに応募したにも関わらず、600番台半ばでした。
すごいなぁ。
会場は↓。
講堂の座席は素晴らしく前後の間隔が狭く、身長が150センチに満たない朔でさえ、座ると膝が前の席の背もたれにぶつかるという有様。笑
腰から膝に掛けて、ずっと突っ張ってる状態ですよ。
一体皆さん、どうやって座席に収まっていたのか、首を傾げるばかりです。
でも、荷物を置くスペースすらなかったので皆さん膝に荷物を置いていて、足をどんな風に折り曲げているのかは分かりませんでした。
まぁとにかくあの狭さには驚きました。笑
2階席までほぼ満席状態で、朔と同年代の方よりも、もう定年されてるような年代の方の方が多かったです。
さて、朔が今回の講演会になぜ参加したかというと、ご高齢ということもあり、生きておられるうちにドナルド・キーンさんをこの目で見たかったしお話を聞いてみたかったからです
今年、ドナルド・キーンさんが日本人に帰化したという新聞記事をお読みになった方も多いと思いますが、キーンさんはコロンビア大学の名誉教授であり、日本文学・文化の研究者として第一線で活躍されていた(いる)方です。
御歳89歳
朔は、大学の英語の授業で、キーンさんの自伝(自伝じゃないかも?)を読んだことから、キーンさんに興味を持ちました。
米海軍の日本語学校で日本語を学び、大戦中は通訳を務めたことや、京都に留学していた時は泉涌寺近くに下宿し、日本人の「お出かけですか」「ちょっとそこまで」という会話が何やねん?みたいな話を読んだことを、今でもおぼろげに覚えています。
今日の講演会はそれらを骨子に肉付けするような内容のお話を聴けました。
・大戦中に一緒に通訳官として働いたのが、オーティス・ケーリ(同志社大学設立者の新島譲と同じくアーモスト大学の卒業生で、同志社大学に派遣されてきたアメリカ人。後の同志社大学名誉教授)で、彼がキーンさんに泉涌寺近くの下宿を紹介した(それをキーンさんは「国宝級の下宿」と冗談めかして表現)。
・その下宿で出会ったのが、永井道雄氏(元文部大臣)で、そこから日本の古典文学だけでなく、当時の現代文学にも興味を持つようになった(最初キーンさんは、アメリカ帰りの永井氏に会うと、英会話の練習相手をさせられるだろうと、敬遠していたそう。逆に永井氏は、キーンさんに会うと日本文学について難しいことを訊かれるだろうと思い、互いに顔を合わせることを避けていたそう。笑)。
・当時、谷崎純一郎氏は京都に住んでおり、東京在住のエドワード・G・サイデンスティッカー氏が英訳した『細雪』の原稿を東京から谷崎宅まで届けたことから、親交が生まれた。(それについてキーンさんは、「(サイデンスティッカー氏は)日本の郵便を信じていなかったから(自分が届けるよう頼まれた)」と。笑)
・京都の四季では、冬が好き。理由は、修学旅行生がいないから。(この発言に、会場内では笑いとちらほら拍手が。笑)
・クラシック音楽全般好きだが、特にオペラが好き。オペラの台本は、文学として読むととても読めた代物じゃないひどいものだけど(笑)、それが音楽に乗って声に出されると、それらを超えるから。
キーンさんはユーモアもあり、他にもいろいろとお話が聴けて本当に良かったです。
本当に日本を愛してるんだなぁというのが伝わってきました
そうそう、冷泉家25代当主である冷泉為人さんのお話も聴きました。
冷泉家は藤原定家に連なる和歌の家ですが、婿養子である為人さんの専門は近世絵画だったのですね
枕草子の構成から大和絵へと話を運び、そこから「日本人とは」というお話をされました。
時間にしてたった30分程度のお話だったので、そこまで深く突っ込んだ内容でもなく、まぁ良くある
「日本人って、お宮参りして、教会で結婚式やって、お寺でお葬式挙げるよね」⇒「とにかく何でも受け入れるのが得意」=「受容的民族」
何故なら自然との関わり方を見たときに、「日本人は自然と一体となって理解しようとする(=親和的、受容的)」から。ex.八百万の神
つまり日本人は、「多様なものを多様なものとして認める」ことが出来る=「情趣による理解を行う」ので、「何でも日本人の感性に合わせて変容させて、受け入れていく」=「ゆるやかな規則」←日本人の得意とするもの
それに対して一神教の欧米では、自然との関わり方を見たときに、「自然を人間の都合に組み変えようとする」=「理知的理解」
というような流れでお話は進みました。
そこら辺で時間切れになってしまい、ご本人も仰っていたように「尻切れトンボ」の講演に
朔としては、↑のような一般論ではなく、最後の方でちらっと仰っていた、パスカルの言葉「やわらかき魂(美を意識するのに必要なものらしい)」とか、キーンさんの著書に出てくる「たおやめぶり」「ますらおぶり」に見る日本人観のお話の方が詳しく聴きたかったのですが……。
それにしても冷泉為人氏の講演は、脱線話の方が面白かったです。笑
人物紹介の時に「(同志社大学とは)隣組のような」と言われたことを受けて、一番近く(隣)から来ました、とか。笑
長年町内会長をしているけど、「人家」は町内に自分のところしかないとか(周囲は同志社大学とか御所など)。笑
その関係で、アーモスト館(元は学生寮)に国勢調査の用紙を届けに行ったとこがあるとか。笑
大学時代(院生時代?)に『枕草子』を再読して、こんなに何でも知ってる女性がカノジョだったら大変だと思ったとか。笑
そして、そんなことを言いつつ、自身は伝統と格式の冷泉家の婿養子というこの矛盾。笑
昨年末のお茶事で為人氏の短冊を拝見しましたが、実は朔の先生が為人氏とは同郷のご友人だと知ったのは、その後のお稽古の時でした。
なるほど、そういう繋がりだったのか
最後に蛇足ですが、司会進行役の元某新聞社の人が、「冷泉家」のことを「れいぜんけ」と言うのがどうにも引っ掛かりました……。
はぁ……。
そりゃ、字面を見ればそう読めないこともないけどさぁ……。
講演者の名字、しかもあの冷泉家ですよ? 現代に残る唯一の定家の子孫ですよ? 時雨亭文庫の継承者ですよ? それを、元とはいえ新聞社に勤めてた人が間違いますかねぇ……。
逆に、紙面での字面しか追ってなかったから、読み方を勘違いしてしまったのでしょうか……。
初っ端からがっくりしてしまいました。
講演中の写真撮影は、席の移動をしない範囲で、フラッシュをたかなければOKだったので、記念にパシャリ。
↓真ん中がキーンさん、黄色のネクタイが為人氏です
ピントぼけぼけですみません……。
PR
Comment
コメントの修正にはpasswordが必要です。任意の英数字を入力して下さい。