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ここは朔が支配人を務める劇場《閑古鳥の啼く朝に》のサロンです。上映案内から、日々のつれづれ事まで。          のんびりまったり更新中。renewal:07/05/02
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思い出しネタ。
2007.12.24 (Mon)
今日クリスマス・イヴなんだってサ。
……うわ、信じらんねー……。

 23日は、真冬のド修羅場第1日目でした。
 真夏のド修羅場よりも単純に労働時間が2倍になったので、
 もう最後の方は膝がガクガクして立ってられなくなるし、
 喉もつぶれかけて、これであと4日持ち堪えられるのか……と。
 そして23日は、弟の誕生日でした。
 あー、彼はいくつになったんでしたっけねぇ?
 しかも朔さんは、今日24日になってからそのことに気付きましたよ。笑
 妹は猫っ可愛がりだけど、弟はそうでもありません。


 で、タイトルですが。
 なぜかついさっき、「けいこうとなるとも」が甦ったんです、脳裏に。
 何かというと、この間のベスト3ご褒美宴会?の時にお店で見た焼酎?の名前です。
 日本酒だったかも?
 たしか平仮名で書いてあったんで、見た瞬間「なんじゃこの呪文めいたモノは?」と一瞬びっくりしたんですけど、よく見れば何てことはない、漢字で書けば「鶏口となるとも」なんですよね。
 たしか「むしろ鶏口となるとも牛後になるなかれ」でしたっけ??
 漢文の授業でさらっと習っただけなのでウロ覚えですが。
 意味は、「大国の金魚のフンに甘んじるよりは、たとえ小国でもいいから一国の主となる方が良い」だったと思います。

 これをさぁ、お酒の名前にした人に乾杯ですよ、ホント。
 中堅と呼ばれる年齢に差し掛かり、下からは突き上げられ上からは抑えられ、成績も一進一退だし家には居場所もない、家に帰るまでの一杯が唯一の楽しみ――そんなサラリーマンのオジサンとか、この銘を見て何を思うんだろう、ふとそんなことを思ったわけなのです。
 なんとも示唆に富んでるじゃありませんか。
 う~む。
 
 ……ってどうなんだろう、朔は国文学系ダイ好きなんで、授業でさらっとやったことでも結構覚えてるけど、国語がキライって人は知らないかな??
 知らなかったら、平仮名で書いてるし、意味不明なんだろうなぁ。

 社会人になってから、自分の常識が決して社会の常識ではないことに気付かされました。
 狭い世界で生きてたよな~。
 今では「藤原定家? 誰ソレ?」ってフツーに言われるもんな~……
 いや~、定家くらいなら中学・高校でも習ったと思うんだけどな~……
 理系の学問とは違って、文系の学問ってお金にはならない分、一般常識とか素養・教養に近いと思うんだけどな~……
 日本史とも相俟って、誰もが一通りのことは習ったはず。
 でもやっぱり、国語がキライって人には立て板に水だったんだろうなぁ。
 もったいないなぁ、おもしろいのに。

 大学の頃は、周りがフツーに「古今和歌集の歌ぜんぶ覚える!」とか「百人一首なら任せて!」とか「四庫全書を検索して~」とか「(万葉集)広瀬本ってどこにあったっけ?」とか「冷泉家時雨亭叢書に~」とか「群書類従の~」な世界だったのが懐かしい。
 でも大学に入る前から朔は竹取物語、源氏物語、枕草子なんかの冒頭や一部を暗唱するのが好きだったし、百人一首にもチャレンジ中だし、意味不明なところでアリスに出てくる出鱈目な詩を覚えたりもした。
 なんか、覚えるのが好きみたい。
 というか好きになったら覚えずにはいられないらしい。

 今は仕事柄中学生と多く触れ合うけど、ホントに彼らは勉強に興味がないように見える。
 いい点を取ることにばっかり気を取られてて、本来の勉強の楽しさに気付いてない。というか気付くチャンスを奪われてる気がする。
 勉強を楽しめたら、成績だって自然と上がるのにね。
 勉強の楽しさを、伝えてあげられたらなぁ……。


 まぁいつものようにとりとめもなくなってしまいましたが、
「けいこうとなるとも」と銘をつけた人への賞讃と、
 そのメッセージに気付かず終わってしまうかもしれないかつての学生、そして今現在古典を習ってるにも関わらずその面白さに気付く機会をもてない学生さんへの哀しさ、
 そんなことを思ったりしたのでした。


ではでは。

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好きな
2007.11.09 (Fri)
支社内の結婚ブームに当てられてるのかもしれません
好きということについて。

「好きな人」というと、大抵の場合彼氏彼女や片思いの相手を指すのでしょうけど、
 朔の場合、「好きな人は?」と問われれば、「そりゃ自分だよ」以外の返答はできない気が…します……。
 自分だよ。
 自分の都合で生きてるもん。
 だって「結婚に向いてないと思う3ヶ条」
  ・相手の都合に振り回されるのがイヤ
  ・自分一人の部屋&時間がないとイヤ
  ・四六時中誰かといるのに耐えられない
 全部満たしてるもん。
 自分一人が良ければ、とまでは思わないけど、自分は自分他人は他人って考え方しか出来ないし。
 根本的なところで相互理解の意識が欠如してるのかも。
 相手のすべてを理解したいと思わないし、自分のことを理解して欲しいとも思わない。
 だってそんなの絶対ムリだし。
 そんなんじゃ寂しさは埋まらないし。
 誰かを好きになったって、結婚したって、「自分」が独りであることに変わりはないし。
 好きになったって寂しさが埋まらないんじゃ、虚しいだけだし。

 そう思う一方で、朔には大好きな人がたくさんいます。
 一部を除く血縁者とか、旧い友達とか、茶道・京都関連の皆々サマとか。
 一番敬愛してるのは茶道の先生で、一番溺愛(笑)してるのはそのお孫さんで、無条件に守ってあげたいのが1つ後輩の子、可愛いのがその下の後輩たちで、頼りにしてるのが……
 いろんな好きがあるけど、恋愛対象としての好きだけはナシ。
 たぶん、ね。
 そうなんだろうなぁって人はいるけど、好きになっても虚しいだけだから。
 叶う叶わないじゃなくて、叶ったところでどうしようもないから表に出さない。
 ホントにね、好きな人が出来ました→両思いになりました→一生幸せに暮らしました、だったらいいのにね。笑
 そんなわけにいくかっつーの。
 うっかり思いが通じたら、それまで以上の孤独を抱えることになるんで、
 ぼくは一生京都へ片思いでいいです。
 いや、いつか絶対両思いになるけどね。笑

 恋愛なんか、両思いになったら後は坂道を転がり落ちてくだけさ。
 結婚は墓場とかよく言ったもんだね。

 誰かに好きだと言われたら、絶望で目の前が真っ暗になっちゃうよ。
 フツーに立ち竦んじゃうよ。
 いっそ、そんなことを言う相手を怨むね。
 好きなんて、軽軽しく言ってんじゃねー。

 だけどぼくは天邪鬼だから、誰かに好きですって伝えたくなる瞬間がある。
 だけどそんな時、相手からも好きですとは言って欲しくない。
 返事なんかいらない。
 笑って受け流してほしい。
 ただ聴いてほしいだけ。
 ぼくの「好き」はあくまで自分本位だから。笑
 そしてぼくの「大好きです」は、時として「ありがとう」と異音同義語にもなるという。笑

 恋愛対象としての好きってなんだろう。
 どうして結婚なんかするんだろう。
 結婚とか……一日中他人に気を遣いながら生活するとか、ぼくには絶対ムリだ……!!
 想像するだけで発狂しそうだ。
(こないだの京都泊で、大学時代の友人と深夜話してた話題が「家に戻らなくてお金だけ入れてくれる人がほしい」とかだったりする。挙句の果てに結論は「みんなでお金出し合って(好きなときに使える隠れ家的)マンションでも借りるかー」になった。笑)

 好きな人なんかいらない。
 自分が一番可愛い。
 その時・その状況に合わせて、最適な人に囲まれて快適に生きていきたい。
 ぼくに一番のメリットを与えてくれる人。
 それがぼくの、その時いちばん好きな人。

 恋 愛 な ん て。

ではでは。

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ふるさとは
2007.08.20 (Mon)
 中学か高校か、はたまた小学校だったかもしれないけど、国語の教科書に室生犀星の「小景異情 そのニ」が載っていた。

  ふるさとは遠くにありて思うもの
  そして悲しく歌うもの

  よしや
  うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても
  帰るところにあるまじや

  ひとり都の夕暮れに
  ふるさと思い涙ぐむ

  その心もて

  遠き都へ帰らばや
  遠き都へ帰らばや

 たしか、こんな詩だ(暗記したものを載せてみたが、覚え間違いがあるかもしれない。勝手に口語訳とか。助詞ががいまいち自信なし。「遠き都に」だったかも。あと連は勝手に構成させてもらった)。

 この詩を習った時、朔はそれまでに引っ越しも転校も経験したことがなく、むろん「ふるさと」を離れたこともなかったのだが、なぜか胸が締め付けられるような衝撃を受けた。

 たとえ外国でお金が無くなって乞食になったとしても、ふるさとは帰る場所じゃない、と言っているのだ。
 遠い都会の空の下で、「ああ、ふるさとが懐かしいなぁ」と涙ぐみながら、それでも歯をくいしばって、ひとりで生きていくのだ。
「遠き都へ帰らばや」。
 ふるさとを懐かしく恋い慕いながらも、「遠い都へ帰りたい(「ばや」は希望の終助詞)」と、本心とは逆のことを願うのだ。

 ふるさとに帰りたい、心の平安を得たい、と望みながら、しかしその心を、自分の意志でねじ伏せ、逆に、都会で生きるための拠り所とする。
「ふるさとには決して戻れない」という決意が、人を強くする。
 これほどまでに、ひとりで生きていくんだ、という人間の孤独と気高さを美しく切なく表現したものを、朔は知らない。

 大好きなんだ。
 なぜか心に迫ったんだ。


 朔は3人姉弟の長女として生まれ、年の離れた妹弟が年子で手が掛かるため、小学生低学年の頃から、親からはほぼノータッチで育ってきた。
 勉強しろとか、成績とか進学先のこととか、口出しされたことがない。
「〇〇ちゃんなら大丈夫」「あの子はしっかりしてるから」と、信頼という名の下に放任されてきた。

 朔が家を離れるとき、妹はまだ中学2年生だった。
 これからいよいよ受験生、という春休みだ。
 成績の方は(朔に比べると)お世辞にも良いとは言えず、母は朔の一人暮らしよりも、妹の進学先を心配していた。
 朔の一人暮らし1年生は、妹の高校受験1年生とともにはじまった。

 それまで朔が実家で使っていた部屋は妹の勉強部屋となった。
 使っていたベッドは、妹のベッドになった。
 勉強机は、母たちの寝室の隅に片付けられた。
 夏休み前には母から「帰ってきても寝るとこないよ。どうせ手伝いもせんと一日中家におって、(妹の)勉強の邪魔しとんとちゃうん?」と笑いながら冗談半分に言われ、朔も「めんどくさいな~。まぁたまには帰ってやるか~。精々美味しいもん食べさせてよ」と軽口を叩く。
 偉そうに自信過剰に軽口は言えても、弱音を吐くとか、悩みを相談するとか、そんなことは家族にはできない。
 勉強ができて、ひとりで何でも決めて実行しないと、家族の知ってる「朔」じゃない。
 そういう朔を母が自慢に思ってるのも知ってるし、信頼してくれてるのも知ってる。
 妹たちだって、少しは誇りに思ってくれてると思う。
 実際朔だって、好きなように自分で決めて道を切り開いてきたことに、満足している。

 でも、だからこそ。
 家族は、ふるさとは、朔の帰る場所ではなくなった。


 槇原敬之の『遠く遠く』という歌に、次のような歌詞がある。

  同窓会の案内状 欠席に丸をつけた
  誰よりも今はみんなの顔 見たい気持ちでいるけど

  遠く遠く 離れていても 僕のことがわかるように
  力いっぱい輝ける日を この街で迎えたい

  僕の夢を叶える場所は この街と決めたから

 家族は、ふるさとは、やさしく抱きとめてくれる存在でなくてもいいんだ。
 遠くから、輝いている自分を見ていて欲しいんだ。
 逃げ込んだり、甘えたりする場所じゃないんだよ。
 べつに錦を飾って帰ろうって見栄を張ってるわけじゃない。
 家族を、ふるさとを離れてひとりで生きていく朔を、そっと見ていて欲しいんだ。
 それ以上は何も望まないから。
 たまに顔を見せに「立ち寄る」くらいが丁度いい。
 もう一度一緒に暮らしたいとか、そんなこと思わない。
 ただ、いつまでも家族の一員として、「うちの娘は頑張ってるんよ」とか
「〇〇ちゃん、すごいんで」と言ってもらえる存在でありたい。
 家族に誇ってもらえる存在でいたいんだ。

 本当に。立ち寄るくらいが丁度いい。
 長く一緒にいると、なぜかどんどん胸が苦しくなる。
 遠くにいて、たまに電話やメールでやりとりするほうが、ずっといい。
「帰る」場所ではないのだと、痛感する。
 帰りたい場所は、むしろ京都。


  ふるさとは遠くにありて思うもの
  そして悲しく歌うもの


 家にいない人間の居場所が徐々に消えていくのは当たり前だ。
 仕事がつらいから辞めて、実家に帰りたいとか思わない。
 もうあの家に、朔の居場所はない。
 それがよく分かっているから。
 朔は、今、この場所で光り輝きたいんだ。
 そしてそれを、遠くから見ていて欲しいんだ。
 見ていてくれる人がいるから、期待してくれている人がいるから、つらくても頑張れるんだよ。

 ふるさとは、帰る場所じゃなくていい。
 そこに、在ってくれるだけで、いい。

 朔の生きる場所は、遠く離れたこの街だから。

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