ここは朔が支配人を務める劇場《閑古鳥の啼く朝に》のサロンです。上映案内から、日々のつれづれ事まで。 のんびりまったり更新中。renewal:07/05/02
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ついに行ってきました、大山崎山荘美術館
このブログを定期的に読んで下さっている方なら御承知の通り、朔はそれはもう、3月の末頃(湯木美術館で展覧会の知らせを見た時)から、ずーっとずーっと
「大山崎山荘をつくった加賀正太郎の情熱
蘭にみた、夢
蘭花譜の誕生」
を観に行きたくて観に行きたくてしょうがなかったのでありました。
で、昨日もう我慢できなくなり、急遽今日お休みをもらって、朝一番で行ってまいりました
そうそう、出発にあたり、ちゃんと『東京少年』も手に入れましたよ
やっぱりネットが一番簡単確実ですね。笑
さて今回の「蘭花譜」ですが。
蘭の栽培は、山荘の主人である加賀正太郎氏(1888~1954年)が、1910年(22歳)で英国キューガーデン(ロンドン南西部のキューにある王立植物園)で見た蘭栽培に感銘を受け、1914年頃自分でもはじめたことに端を発しています。
しかしその後、戦争が、そして敗戦の色が濃くなる中、寒さに弱い蘭を守るための燃料の調達もままならなくなってゆき、このままでは約10,000鉢にも近い蘭たちが枯死してしまうのを憂え、後世にその姿を残すために作られたものです。
「余の蘭のコレクシヨンが世界的に見て、どんな位置にあるものであろうか、それは余は知らない。唯余が半生の努力によつて成就した余の蘭のコレクシヨンが、国が戦に負けたために一朝にして空に帰する事は、余にとつては感慨無量である。これだけのことをするには、誰がやつても少なくても30ヶ年の努力を要するであろう。真に哀惜の念に堪へない」
……とは、正太郎氏の言。安藤忠雄氏の設計による半地下の展示室「地中の宝石箱」と呼ばれる新館内のキャプションに引用されていました。
蘭花譜第一輯は300部限定版として、木版画で制作され、1946年に刊行されています。
しかしその貴重な版木は、燃料不足を補うために暖炉にくべられてしまったり、正太郎氏の死後散逸してしまったものが多いそうです。
さて、では朔がもっとも感銘を受けたのはどの絵だったかというと、クロード・モネの≪睡蓮≫です
あはははは~。
いや~だって、モネの睡蓮もずっと見たいと思ってたんですもの!
蘭の花は、元々花に知識のない朔なので、最初の数枚見ただけで後はどれを見てもすべて同じ状態に
感想は「いや~、綺麗だね~」の一言デス
うん、本当に綺麗だった。
版木からどうやって色を重ねていったのか、その工程を見ることができたり、校正?の入ったものも見ることができて、いかに「本物」を作ることに心血を注いでいたかがよく分かりました。
注文が本当に細かくてすごかった。
あ、花ってけっこうグロテスクだなとも思いました。
これまであんまりマジマジと見ることがなかったので、そんなこと気にもしたことなかったけど。
まぁ結局こうして後から振り返ってみると、朔は「蘭花譜」そのものよりも、大正・昭和に活躍した実業家が蘭の栽培にのめりこんでいた、戦争・敗戦という大きな壁に立ちはだかれながらもそれを貫き通した、ということ自体に惹かれていたのだなぁと思うわけであります。
正太郎氏は、交友関係も面白かった。
夏目漱石との間を取り持ったのが、祇園新橋の女将で「文学芸妓」と呼ばれていた磯田多佳だったり、ニッカウヰスキーの竹鶴政孝とか、アサヒビールの山本為三郎とか。
そして意外なところで「すごい 」と思ったのが、日本人初のユングフラウ(スイスアルプス)の登頂者が、実は正太郎氏であること。
館内で上映されていたビデオの中で当時の写真を見たのですが、
「えっ 正装」
って感じでした。
モノクロ写真だったので、服装はよく分からなかったのですが、頭には黒いハットをかぶり、黒いコート(とても防寒着には見えない)姿。
ステッキは持ってたかもしれないけど、リュックとか全然持ってなかったと思う。
なんかもう、街角で撮りました★みたいな。
ユンクフラウって確か「お嬢さん」って意味だと誰かに聞いた気がするので、紳士たる者、いついかなる時も若い未婚の女性の前では礼節(服装マナー)を守らねばならん……とかだったらすごいのになぁとかアホなことを考えてしまいました
英国式の建物も、すごく気に入りました。
本館の2階では、1時間ごとに演奏されるPolyphon Giant(ポリフォン・ジャイアント)のオルゴール演奏も聴けましたしね
ちなみに、この巨大オルゴールを作ったドイツのメーカーは、1914年に製造を中止したそうです。
これも時代よのぅ……。
モネの絵を2枚しか見られなかったので、また是非行きたいと思います
できたら次は、庭の池に本物の睡蓮が咲く頃に
このブログを定期的に読んで下さっている方なら御承知の通り、朔はそれはもう、3月の末頃(湯木美術館で展覧会の知らせを見た時)から、ずーっとずーっと
「大山崎山荘をつくった加賀正太郎の情熱
蘭にみた、夢
蘭花譜の誕生」
を観に行きたくて観に行きたくてしょうがなかったのでありました。
で、昨日もう我慢できなくなり、急遽今日お休みをもらって、朝一番で行ってまいりました
そうそう、出発にあたり、ちゃんと『東京少年』も手に入れましたよ
やっぱりネットが一番簡単確実ですね。笑
さて今回の「蘭花譜」ですが。
蘭の栽培は、山荘の主人である加賀正太郎氏(1888~1954年)が、1910年(22歳)で英国キューガーデン(ロンドン南西部のキューにある王立植物園)で見た蘭栽培に感銘を受け、1914年頃自分でもはじめたことに端を発しています。
しかしその後、戦争が、そして敗戦の色が濃くなる中、寒さに弱い蘭を守るための燃料の調達もままならなくなってゆき、このままでは約10,000鉢にも近い蘭たちが枯死してしまうのを憂え、後世にその姿を残すために作られたものです。
「余の蘭のコレクシヨンが世界的に見て、どんな位置にあるものであろうか、それは余は知らない。唯余が半生の努力によつて成就した余の蘭のコレクシヨンが、国が戦に負けたために一朝にして空に帰する事は、余にとつては感慨無量である。これだけのことをするには、誰がやつても少なくても30ヶ年の努力を要するであろう。真に哀惜の念に堪へない」
……とは、正太郎氏の言。安藤忠雄氏の設計による半地下の展示室「地中の宝石箱」と呼ばれる新館内のキャプションに引用されていました。
蘭花譜第一輯は300部限定版として、木版画で制作され、1946年に刊行されています。
しかしその貴重な版木は、燃料不足を補うために暖炉にくべられてしまったり、正太郎氏の死後散逸してしまったものが多いそうです。
さて、では朔がもっとも感銘を受けたのはどの絵だったかというと、クロード・モネの≪睡蓮≫です
あはははは~。
いや~だって、モネの睡蓮もずっと見たいと思ってたんですもの!
蘭の花は、元々花に知識のない朔なので、最初の数枚見ただけで後はどれを見てもすべて同じ状態に
感想は「いや~、綺麗だね~」の一言デス
うん、本当に綺麗だった。
版木からどうやって色を重ねていったのか、その工程を見ることができたり、校正?の入ったものも見ることができて、いかに「本物」を作ることに心血を注いでいたかがよく分かりました。
注文が本当に細かくてすごかった。
あ、花ってけっこうグロテスクだなとも思いました。
これまであんまりマジマジと見ることがなかったので、そんなこと気にもしたことなかったけど。
まぁ結局こうして後から振り返ってみると、朔は「蘭花譜」そのものよりも、大正・昭和に活躍した実業家が蘭の栽培にのめりこんでいた、戦争・敗戦という大きな壁に立ちはだかれながらもそれを貫き通した、ということ自体に惹かれていたのだなぁと思うわけであります。
正太郎氏は、交友関係も面白かった。
夏目漱石との間を取り持ったのが、祇園新橋の女将で「文学芸妓」と呼ばれていた磯田多佳だったり、ニッカウヰスキーの竹鶴政孝とか、アサヒビールの山本為三郎とか。
そして意外なところで「すごい 」と思ったのが、日本人初のユングフラウ(スイスアルプス)の登頂者が、実は正太郎氏であること。
館内で上映されていたビデオの中で当時の写真を見たのですが、
「えっ 正装」
って感じでした。
モノクロ写真だったので、服装はよく分からなかったのですが、頭には黒いハットをかぶり、黒いコート(とても防寒着には見えない)姿。
ステッキは持ってたかもしれないけど、リュックとか全然持ってなかったと思う。
なんかもう、街角で撮りました★みたいな。
ユンクフラウって確か「お嬢さん」って意味だと誰かに聞いた気がするので、紳士たる者、いついかなる時も若い未婚の女性の前では礼節(服装マナー)を守らねばならん……とかだったらすごいのになぁとかアホなことを考えてしまいました
英国式の建物も、すごく気に入りました。
本館の2階では、1時間ごとに演奏されるPolyphon Giant(ポリフォン・ジャイアント)のオルゴール演奏も聴けましたしね
ちなみに、この巨大オルゴールを作ったドイツのメーカーは、1914年に製造を中止したそうです。
これも時代よのぅ……。
モネの絵を2枚しか見られなかったので、また是非行きたいと思います
できたら次は、庭の池に本物の睡蓮が咲く頃に
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